単に生きるのに向いてない話
Twitterで書いた↓のつづき
やりたいことはアホほどあるけど、それを遂行する能力や体力は俺が俺でである限りどこにも存在しないようだし、それについて改善しようと思ってみても脳がカスすぎて何もまとまらず、しかし時間は止まってくれないのでどんどん自分の状態も周りの物の状態も悪化し
そしてやりたいことはただの「やらなければならないこと」と化し、もう取り返せない楽しかった過去と想像内のそれなりエエ感じの未来だけが脳に溜まっては上限を超えてこぼれて消えて、身体のほうは引き返すこともできず朽ちていくのみ
しかし人生とは実質的にそういうもので、歳をとり続ける限りどんなに頑張ってもゆるやかにそういった方向に落ちていくばかり、という事に気づき、こりゃ本格的に生まれてこない方が良かったなと最近本当によく思うようになった。失う事が出来ない人間は生きるのにはまったく向かない。いやほんと
俺の虚無感や無気力は、生き方が分からないとかやりたいことが分からないとかそういうものではなく、生き方もやり方も知っているのに体も時間もなんにも足りていないしこの世界の全てが有限であるという所から来ている。生命という枠に嵌まった状態で過ごすことが根本的に向いていない
この世界も自分も無限だと思っていたのにそうではなかった、なんでそうではないんだ、と喚いて泣いているという感じ。救いようがない。失わずに生きる事は不可能だと分かっていても理不尽すぎて抗わずにはいられなくて、その抗いだけに人生をかけすぎてその他がなにもできない。人生のコマが進まない
これはもう何年も前からある考えだけど、もういい加減自分の脳内だけで留めておくのは難しくなってきた。こうして表明するだけでなくそろそろ誰かに整理を手伝ってもらわなければならないと、これ以上足踏みだけしているわけにはいかないと天井の隅から見ている俺がもう我慢できずに言い出した
とはいいつつ、今更精神科や心療内科やカウンセリングにかかるのも想像しづらい。自分が日々生きているこの原理すら理解できなくて家族に断片すら話すことができないものを、他人に理解してもらったり、解決策を出してもらう等不可能も甚だしいと思う。どうせ断捨離とか勧められる
失う事に恐れを抱かず生きるという事に対して、過去を切り捨てる以外の解決策なんか無いように思う。今この世界を生きている人間であれば大抵が当たり前に持ち合わせている、もはやスキルという括りですらないはずの本能的なものを俺は持っていない。
ガキのころ、辛かったあのころ、がんばっていたあのころ、それらの傍らにあったものが俺も含めてどんどんダメになっていく、失われて行く、そんな当たり前の原理に毎日心がはち切れそうなほどに悲しんでも悲しんでも、俺以外は誰も何も感じないで、むしろ前を向いてに前へ行く。
これに関しては胸中いろいろと複雑なので言い切りたくはないが、簡単に言うなら悲しい。昔から言っているが恐ろしさも多分にある。それに加えて寂しいのかもしれない。
俺の喪失を怖れている対象は無機物だが、それらが機能しなくなったり、ダメになったり、とにかく失われることがあればそれは俺の生きた時間を失うのと何も変わらない。自分が消えて行く。思い出などろくに残るものではない。
だがその悲しさや恐ろしさを他人には認めてもらえることはない。生きていく上でどんな問題が起ころうがとりあえず目の前を見ながら生きる方がよっぽど効率的だし、ヒトよりモノが大切、なんてことに共感する人などめったにいない。
どうせなくなる現物よりも思い出に残ったことの方が素晴らしい。囚われているぐらいなら捨ててでも新しいものに触れよ、という考えの方が一般的に支持されているようで、こうして恐れているだけでも誰かから責められている、とすら思う。
当たり前の事実を寂しがるやつがろくに生きていくことなどできない。それはそう
過去を重視することは決して正しい生き方の枠に入るわけではない、ということは残念ながら人の子として生まれて今まで生きてしまったので知っている。好きに生きればいいと理解していても、だからって俺が何人もいるわけじゃないから、過去に囚われておかしくなっている時に人生のコマを進めることはできない。
こうして書き出して脳の膿を少し追い出してじゃあどうにかなるかといえばそんなことなく、今日も明日も失われることをただ恐れ、失われたものに対してはいつまでも後ろ髪引きずられまくって生きていく。正しいとか間違いとかとりあえず置いといても愚鈍にもほどがある生き方で、今俺はその愚鈍によって起こったいろんな蓄積に耐えられなくなってるってワケ。
そのくせやりたいことはアホみたいに大量にある。希死念慮も思うように生きられないからこその死しか道がないという考えからきているところが大きい。
先を見たいならもう折り合いというものも付けていかにゃあどうしようもない……と分かっていても、いつか失う事を予想するだけでも震え上がるほど恐ろしいし、実際に失われてみるとショックがあまりにも大きい。
例えあとから問題ないと分かっても(去年そういう例があった)、どんなものでもいずれ必ず自分の人生から消えて行くのだ、と思い知るとパニックが起こり、受け止めきれなくなり、勝手に追い込まれて逃げるしかなくなる。
そんなただの自己中なショックとその後の後悔やあまりに悪すぎる予後をこれからも一人で抱えて生きていくのだと思うと、爆発寸前のような恐ろしさの傍らでなんで俺はそんなことをしているんだろう、そんなんじゃ生きていけないだろといやに冷静に思う。事実今生きていけなくなってるしな。
だからといってさっさと過去を切り捨てろとか神を信じろとか言われても、俺はその人を原型がなくなるまでボコボコにしたいと思うだけで納得することはない。
つらいから捨てる、やめる、前を向く、信じるものを作る、などただの対策だけでどうにかして納得できる頭を持っていない。
この事に対する解決策そのものよりも、失うのが怖いのがなぜなのかを一番知りたい。当事者のはずの俺がなぜか一番わかっていないことを一旦探りたい。俺ひとりではもうお手上げ。
でも悩みとして自己中すぎて病院を受診したりカウンセリングを受けたりするのも気が引けるし、どうしたらいいのかもうわからない。というか、この悩みが向き合う意味のある事であり、一旦でも悩んでいいと思ってくれる人はまずいないと思う。そんなものは治療にならない。
怖いのは、誰にとっても失うことは当たり前で、そうして失ったあとにも皆生きているし、俺も自死は一応ごめんだからきっと失っても生きていくし、そのうえ生きなければならないだけの目標がそれなりにある、ということ。
つまり、失いながら生きていくという至極当然のことがめちゃくちゃ怖い。
「当然」ということそのものも怖い。失う事への恐ろしさ寂しさ悲しさ、そういうものを否定し、元気づけ、進ませようとする人間の方がおそらく多いことに恐怖と絶望を覚える。ついでに過去を守ることを無駄だと嘲笑する人もいる。とりあえず全員呪う。
でも自分で心から諦められるようになるまでこの先へは進めないのだということも納得はしていないが知っている。既に間違った道を歩んでいるので、そのままでいいんだと肯定されてもそれは違う。
だから、もうたくさんだ、なんかちょっとでもよくならないか、と他人に助けを求めそうになる。そんなことしてもろくなことにはならないと分かっていても、もう自分自身がお手上げであることには変わりないし、その状態でいれば何も変わらない。
変化というものも自分の中では失う事と同程度の恐怖を伴う要素なので、変わわらなければと積極的に思うわけではないけど、だからといって生きていけないのは困る。とはいえ基本的には余計な変化などできれば少ない方が良いと思っているのは昔から変わってない。
死に対する恐怖とはまた少し違う。いずれ強制される過去との決別とその後の人生を失ったままで生きていく事に対する恐ろしさと、必ず何もかもを失い消える事に対する恐ろしさだと、ちょっと違うと思う。後者は現状ここに存在している時点で俺だろうが誰だろうが手の打ちようがないので、諦めというとちょっと違うがもうだいぶ前にそこまで考えないようになった。怖いと思うこと自体が全くなくなったわけではないが。
まあ、もし何か考えが変わって過去よりも今を生きられるようになったところで、俺は今生きていることを実感した時にもしれっと希死念慮が過るタイプなので、結局死という一番デカくて抗えない失いと酸いも甘いも噛みわけて進むことになる。
それはみんな一緒だし、その辺は正直今はそこまでの問題じゃない。できる限り化学調味料と塩分にまみれた日が多いと良いなと思うぐらい。
具体的に失うものがなんなのかを結構濁して書いているのは、単純に「失われるもの」と認識し恐れているものの量がそれなりに多いことと、こうして文章として書くために考えたり、人に相談しようと口に出そうとしたりするだけで悍ましいからということ、そしてなにより俺の中の誰かがくだらないと一様に無下にするそれをもし現実の人間にも同じように扱われてしまったらもうたまったもんじゃないからだ。
当たり前のことを恐れても、当たり前である以上避けては通れない。それによってなんらかの問題が発生しているのだから、つまり何か間違った感覚や考えに基づいて生きているという事だ。いわば自業自得で、他者からすればこれらに悩んでいること自体が自己中心的極まりない。
だからこそ怖いし、誰に相談しようとも今まで思わなかった。くだらないことはさっさとやめて楽になれという回答が来ることはわかり切っている。
そうすりゃカンタンに楽になれるだろうことは猿でもわかる。だから俺にもわかる。もしこの世の大半を占める、確実に俺という人間より正しさに近い場所で生きている一般の人間からそんな風に当たり前のことを言われたら、もう拒否権などない。
でもそんなんで十年モノの蓄積がどうにかできるわけはない。なってないからこんなことを書いている。わかっていても抗おうとする。
最終的に一番欲しいものはそれこそ永遠であり、それには失われるという概念がない。その永遠を以て全てを手に入れたいし全てを留めたい。つまり、生物は生まれれば死ぬしモノは作られれば壊れる世界のサイクルに組み込まれるのにたぶん根本的に向いていない。
もし俺がなんらかのフィクションの登場人物であれば自己のために永遠の力を手にしようとするヤバいやつであり、永遠の完成を阻止したい主人公側の人間に「終わりがあるから美しい」みたいな事を力説されながらみっともなく死ぬと思われる。
途中にも書いたけどこんなことを表に書いて出したところで今更何も変わらないとわかっている。
そして俺の抱えるほぼすべての問題は誰かが手助けできるものではないと昔から再三言っている。助けてもらえるならとっくに助けてもらっている。毎日頭が壊れていくようで、理解できていたはずのこともどんどん分からなくなるできなくなるこの感覚を、何年も何にも頼らないでできるかぎり意識を保ってきた。もういい加減頭の外に出すことぐらい許されて欲しい。
もう助からないならそんな人間は死ぬ方が世界にとっては利益になると思う方もいらっしゃるだろうが、自己肯定感が高いのでそういうのには反抗していく所存。こんだけ病んでも黙って死なず、生命を維持している時点でそれなりに図太い。
まあまあよろしく生きていくのを当然の権利だと思っている。ろくすっぽ義務も果たしていないようなもんなのに。
だからこそ当然の摂理に抗おうとしてずっと取り残されている。
しかし抗っても終わりは必ず起こる。それが始まりでもあると背中を押してくれる誰かがいたらいいのにと最近少し思う。
人生を一人で生きるのには意外と限界があるからみんな誰かと生きたいと思うのかもしれない。だが誰もいない。いくら変わろうとも俺には性や金というほとんどの人間にとって最優先される慰めの対価を持つ余地がない。
向かないだけでなく、世界のサイクルに入る権利がない。つまり妥当なんだろうな。
